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事件は起こってからでは遅すぎる。子ども達を不幸な事件の主人公にしないため
  「命の大切さ」って何だろう
  佐世保の小6女児事件が問いかけるモノ
文責 樋口 邦彦(代表取締役専務)

欲求=「したい」の否定は   「命」の否定
マスコミ報道だけの判断ですから、軽率な結論を避けなければなりませんが、佐世保の小6児童の事件のポイントは、この少女も「普通」の「良い子」であったことと、少女に明確な殺意があったことだと思います。教育関係者達は「命の大切さを教えてきていたのに」と語っていましたが、事件は起こってしまいました。
この種の事件が起こる都度、事件を起こした子ども達が無意識の世界ですでに死んでいたように思えます。もしくは自分が殺された思いが殺意を構成したように思えるのです。なぜなら私たちにとって大切にされたい「命」は単なる生物的命ではなく、人格を意味するからです。
人格の核は意識的・無意識的な欲求=「したい」です。誰しも人格=「したいこと」を否定されて生物的命を保持しても、生きた心地がしないからです。その代表的事例は池田小学校事件の宅間被告でした。彼は両親から歓迎された実感を持てませんでした。そして事件後も「反省」することなく、死刑さえ求めていました。
有名なたけし=北野武氏は児童期母親から厳しくされ、隠れてしか遊べなかったほど遊ばせてもらえなかったし、食事時「おいしい」と表現することさえ抑圧されたと語っています。ですから仮に刃物で攻撃されても怖くないと思えるほど、死に向かっていると語っているのです。(芹沢俊介著「死のありか」晶文社より)彼が起こした事故、事件にそれが伺えますし、彼の暴力をテーマにした演技に演技とは思わせない迫力を感じるのはそのせいかもしれません。
納得できないと暴力を感じる
おとな達は倫理、道徳、法などを子ども達にしつけます。それが子どもに十分納得されればよいのですが、多くの場合子どもが屈服しているにすぎないことを気づいていないことが多いのではないでしょうか。この場合子どもにとっては人格否定であり、いわば殺されているに等しいのです。「自分が出しにくい」「良い子」にそうした場合が多いように思えます。それが殺意の温床になっても不思議ではないのです。
命の大切さ」はそれを何千回もお説教することではないと思います。どのような働きかけも相手から心の底から納得を引き出す(=人格を尊重する)働きかけを心掛けることが「命を大切にする」ことだと思います。大人と子どもの関係の場合、大人が子どもにとって暴力的存在であることを相当注意してかからないと、その善意にも関わらず、子どもの「命」を奪っている場合があると心得るべきだと思います。
今度の事件でも契機はホームページ上のトラブルだったかも知れません。ですがそのトラブルが殺意にまで高まり、実行できた背景は多くの意識、無意識の蓄積の結果であったと考えた方がよいと思えます。女児のホームページへの書き込みに日々の鬱屈感が表現されていたことでも、それが伺えます。
私は心を下のような図で理解しています。行動を支配する心の中で、無意識部分が圧倒的部分を占めており、それを必死に自我や超自我で受けとめながら(表現しながら)、行動をコントロールしようとしている総体を私は人格と呼んでいます。この無意識部分で人格の否定を感じ殺意が醸成されたと感じているのです。
生きる力は受け入れられた実感の深さから
彼女のホームページでのやりとりで命の大切さを一方で語りながら、本音は違うと否定している内容がありました。意識で理解したことがうさんくさいのでもう一方の意識が否定しているのです。そのうさんくささは自分を否定された実感が無意識に蓄積した結果からのもので「命を大切に」は建前だと反応してしまっているように思えます。時々自分が受けた暴力的しつけを肯定しながら懐かしみ、体罰すら肯定する人がいます。それを肯定できたのはその背景に深い受けとめがあったか、その後深く受けとめられたためかのどちらかです。
私たちの記憶は上記の図の下からイメージ→言葉→論理で積み上げられます。とくに乳胎児期は殆どがイメージです。ですからこの段階で蓄積した記憶は理屈では取り除けないほど深く蓄積されるのです。殆どの人が困難にぶつかっても生きる方を選べるのはこの時期に母親の深い受け入れを受けているからだと思えます。
だだをこねられる子は生きやすい
よく館内の自動販売機前で「アイスの戦い」を目にします。「ご飯が食べられないでしょ」「いつもいつも駄目」とお母さんも戦います。ですが多くの場合、毎回子どもがだだをこねると「今回ダケよ」等と言いながら、お母さんが負けています。多分妊娠や出産を喜び、子どもの存在を喜んでいるから負けてしまうのです。お母さんが戦うのも子どもへの愛情ですし、負けてしまうのも愛情です。子どもはこうした経験から受け入れの程度を見定めています。勝てる=「受け入れられている」と思う程お母さんの拒否と断固戦います。子どもにとっては幸せ一杯なのです。それが生きる力の大きな部分を作り、様々なトラブルに負けない心を作っているように思えるのです。
教育的視点は暴力的視点
ある母親を学校の先生に持つ小学生がお母さんに「家でまで先生するな!」と反抗したそうです。子どもにとっては自分を無条件で受け入れてくれる人を求めているのです。それは小さいほど肉体的、経済的に、精神的に弱いからです。おとな達は子どもに良かれと思って教育・しつけを施しますが、子どもからは人格の否定として受けとめられることが多いのです。逆に教育されなくともしっかりおとな達の行動を真似て能力を身につけているから、なおさら大人の暴力を感じるのです。そして暴力を肯定する心を蓄積するのです。
納得できる我慢と納得できない我慢
社会生活では自分の意のままにならないことがたくさんあって、我慢をしなければならない事が多くあります。子ども達が我がままだと我慢を教えなければと思うおとな達が多くいます。ですが我慢は必ずストレスを伴います。ストレスは内に向かえば身体や心の病気の源になります。外に向かえば暴力行為の源になります。その我慢の結果得られるモノがはっきりしていれば我慢を強いる人に暴力を感じないでしょうし、それが得られたときストレスが発散されます。おとな達は様々な体験や理屈から我慢の結果得られるモノを考えて子どもに我慢を教えているかも知れません。しかし社会のルールや人間関係の理屈をまだ整理して考えることが出来ない心の発達段階では、大人が示す我慢の結果得られるモノが理解できない場合が多いのです。ですから「アイスの戦い」で子どもが我慢できないのも自然な姿なのです。そして大人が勝ってしまうと子どもには暴力を加えられた記憶が残ってしまうのです。ですから子どもに我慢を求めるときこそ、大人は慎重でなければならないと思うのです。
何故学校へ行かなければならないの?
この子どもからの問いかけに子どもが納得行くように答えられる大人がどれだけいるでしょうか?。この問いかけは学童期の子どもが納得させて欲しい最大の関心事でもある様に思えます。
今子どもにとっての学校の捉え方が大きく変化しています。高学歴者でもリストラに会っていることを子どもは知り始めています。大学新卒者が就職できにくくなっていることを子どもは知り始めています。逆に正社員として就職しなくとも結構生活していけることも子どもは見聞きしています。ですから何故遊びを我慢してまで勉強しなければならないのかは、大人が思っている以上に子どもには分かりにくくなっているのです。
おとな達が当然顔して「学校へ行きなさい」「高学歴を付けなさい」「宿題しなさい」と子どもに迫っていますが、納得できないので「うざったい」などの暴力感を蓄積させているのです。とくに学校でも家でも納得できないまま大人から迫られたら、それこそ居場所がないのです。私もこれからの時代を生き抜くのに学力を付けることは大切だと考えていますが、子どもにそれを納得行くように説明するためには、子どもの学習への捉え方を相当慎重に聞き取っておかねばならないと思っています。
また学歴は進学によって身につけますが、学力は自学自習でも身につけられることは考えておいて良いことだと思います。更に国立大学の独立法人化、小中学校の学区の自由化が広がっています。こうした変化の実情と意味をふまえながら、子どもにアドバイスできる力も求められているのです。
子どもは大人に合わせる
ある母親が「私はあまり厳しくしつけた思いはないですが私の子どもはあまり無理を言いません。子どもが自発的に無理を言ってないのですから、これでいいのですね」と私に回答を求めてきたことがあります。おとなしくしていることが全て悪いというわけではないですが、子どもは家では両親に、学校では先生に受け入れられたいと強く思っています。ですから両親や先生に会わせる傾向があるのです。
ですから事件を起こしたときおとな達は「そんなに厳しく育てた覚えはないのに」と驚くのです。十分受け入れられた実感をもっているから聞き分けよくなれる場合もあるでしょうが、一般的にはおとなしく聞き分けの良い子は何処かで我慢しストレスを貯めているていると言う目で見てあげて良い加減だと思います。事件は起こさせてからは遅すぎるのです。
元気になる不登校児童
私たちはスイミングクラブでも乗馬クラブでも不登校児童を無料で受け入れるプレイスクールを開設しています。常時5人から10人が通ってきています。保護者や担任の先生が驚くほど元気になってくれています。その秘密は子ども主導で一時間を過ごすプログラムにあります。そこで子ども達は受け入れを実感してくれるのです。それが実感できると自分の外社会との関わりに自信が生まれ、泳力目標、学習目標などを持ってくれるようになるのです。
通い初めて一年以上かかる子どももいますが、通常の私たちのクラスへ入れる子、自習塾である学習クラブに入った子どもも何人か生まれてきました。その学習クラブでは、奇跡が起こったと思えるほど成績が上がる子が出ています。その要点はその子の学習意欲が出るまで決して学習を強制しない指導方法にあります。
代理母の役割と限界
私たちのプログラムはどれだけ子どもの欲求を受け入れられるか、を基本にしています。さしあたりインストラクター達は代理母だと位置づけています。ケガをしにくいプール環境はそれを支えています。言葉が通じない馬は乗り手に、乗り手が馬を心で受け入れ無ければ動いてくれない、乗り手が受け入れれば馬も受け入れてくれる経験から、受け入れの大切さと喜びを教えてくれます。受け入れられた実感を持ってくれた子どもはいきいきしています。泳力も騎乗力も学力も向上してきます。
しかし私たちは実の両親ほど深い受け止めは出来ません。家庭でのトラブルを受けとめきる力はありません。逆に実の両親ほど熱くなりすぎない一面があります。熱くなったトラブルの要因を発見してもらうお手伝いには、程良い受け止めになることが多いのです。
私たちのプログラムになじんでくれた子は元気に、素直に自分が出せるようになり、友達を上手に作ります。プールでは子ども達はプール中を動き回ります。乗馬クラブではどろんこになって馬と遊び、インストラクターや友達と遊びます。当然私たちが危険だと思ったら子ども達に我慢を求めます。身体中で止めることもあります。そんな場合聞き入れてくれたら「有り難う」と言える心を持っておこうとインストラクター達は自分に言い聞かせています。そしてどこまで子どもの我がままを受け入れられるかが自分たちの度量だとも言い聞かせています。」
保護者の方々も子どもと共に肩の力が抜ける場所として私たちをご利用下さい。
ますます子どもには生きにくい世相になっていると構え、御両親方と共に子どもが不幸な事件の主人公にならないよう頑張りたいと思っています。
呼吸が短くなっている時代です。
せめてWell・Beではゆったり呼吸できる環境を
             提供したいと考えています!
●●● 最後までお読みいただき ありがとうございました。 ●●●

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